「耳を澄まして」

もう随分長いこと、母のすぐ隣で一日の大半を過ごしている。彼女の発する小
さな音、ささいな変化やSOSを見逃さないために。私の母は50代半ばで若年性
アルツハイマーを発病した。最も顕著な症状は失語症で、瞬く間に言葉による
意思伝達が難しくなった。それに伴って日常生活を送るための身体機能も次第
に劣化していった。介護保険施行時には既に要介護5。生活全般に介助が必要
だった。
人とのコミュニケーションの手段を持たず、すべてに援助が必要となった母の
つらさや心細さを思い、父はあくまで家族が支えて共に暮らす在宅介護にこだ
わった。
父が他界してからも、それは変わらない。いわゆる「寝たきり」である母の一
日を必要以上につらいものにしたくない。長い時間を優しくやわらかく過ごさ
せてやることが私の役目だ。
生きることの大切さ、人の痛みや悲しみ、感謝の心…。積み重ねてきた歳月を
ふりかえると、言葉を持たない母から教えられることの何と多いことか。どう
やら私は人として成長させていただくために介護という大きな課題を頂戴した
ようだ。介護はもちろん大変だが、母の愛らしさのおかげでそんなに苦になら
ずに続けてこられた。有難いことである。
私のそばで今日も母は静かに寝息をたてている。生命の伝える小さな音に、私
は耳を澄ませる。

「耳を澄まして」 (毎日新聞・女の気持ち/掲載)

  作者 了戒恵理子

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